これは駄文である。
夢忙録などと華々しい題を冠にしているのに、随分と恥ずかしい自分語りであることを先にご容赦願いたい。
雨後春筍
どうも最近は自分の状態が非常に良くないと感じる。
最近、といっても、裏庭の筍のように、自分の犯してきた愚かしさがポコポコと表に出始めただけで、
無計画に撒きまくった種が巡り巡って今に顔を出していることは言うまでもない。
進行方向に額を向けて一歩踏み出した気ではいた、いやそうしなければと思ってはいたのだが、何か得体の知れないバイアスが掛かっている。
私はこの正体を過去目にしたことがある。実際知りはしないのだが、見たことがある。
ただし私は完璧主義者ではない。楽する方法だけを考えて生きてきたはずだ。
だからきっとこれも言い訳なのだろうと思うと、また辟易するのだ。(偉い人だって嘘はつくものだ。)
人間関係リセット癖
最近よく目にする言葉だが、随分とまあライトな表現である。
自分が世界の中心であると認識している人間は、好んでこの言葉を使いたがるのであろう。
自己の存在が矮小で、好きでも嫌いでも煩わしいでもない「居てはいけない」と卑下する人間からすれば、
それは
『私如きと関わることになって申し訳ありません静かに消えます病』
とでも言い換えるのだろうか。
違いのわからない男
音楽に関して言えばどうかと問われれば、そこへの情熱だけは相変わらずだよ、と嘘をつく。
いっときはどんな音楽も聴けなくなった。自分と比較して惨めになったから。
今はどんな音楽も聴けるようになった。リスナーになったから。
仕事柄もあるが、何より自分の進歩のためにさまざまな音楽に触れて耳を肥えさせる努力をしてきた。
専門家からすれば赤子レベルだろうが、それでも音楽をやる人間としての耳にある程度はなっていたと思う。
先日大事な曲を聴き比べる機会があった。カケラも差がわからず絶望した。遂に死んだのであろう。
八方美人
弱いところを見せることに臆病になり、見栄だけで生きてきた人間としてはまだまだ現役の八方美人である。
だったら見栄を張る対象を作らなければいいのではないか、と、ドライな関係なのだと自分を追い込んでみた。
善いことではないと思う。
霞がかかって正しい行いがわからなくなる。
今はまだ、ふとああこれはまずいと振り返ることができるが、そのうち霧山の崖際の舗装されてない道を転げ落ちるのが明白だ。
だから、久々に文を認めるのなら、ハッピーな内容を見栄を張って綴るのではなく、私は今こんな愚かなのだと正直に書き記しておきたかった。
後悔先に立たず
と先人は言うが、ここ数年数ヶ月の私はずいぶんと後悔が先に立ってくれていた。
周りの大切な人たちのおかげでその機会も随分と多くあった。
それに悉く失敗した、いや失敗などと言う他人行儀ではなく、掃いて捨てたのは自ずからだった。
ごめんなさい
と言う言葉には二度としないという意味があるのだと親から教わった。
もう二度とごめんなさいという言葉を使ってはいけない人間になった気がする。
そんな私は今日も明日も見栄を張って踏ん反り返りドライな世界で生きていく。
外の世界とは往々にして甘えたがりな自分に都合よくできている。
誠意を見せなければ誠意は返ってこない。深く移入しなければ深く入り込まれない。
鏡写の自分と常に向き合っているようだ。関わろうと思わなければ関わってこないのだから。
いつかそんな深い部分で繋がれるように、もう一度ごめんなさいと言っていい人間になれるように。
小指の爪に灯った火程度には舵を取ろうともがいている自分へ。
未だにこんな文体で見栄を張り続ける自分への戒めとして、この文は世に出してしまおうと思ったのでした。
またどこかで。
と、言える人間でいたかった。